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さんま備忘録

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軍縮期の改四五式軍衣袴外套と、それ以前の四五式との関係について(その1)

前説


改四五式軍衣袴・外套の制定時期は大正7年ですが、wikipediaの陸軍服制のページ(2016年6月20日 (月) 14:28‎ 曾禰越後守氏改訂版)には以下のような記載があります。

「改四五式」の捺印がされた。これは、軍縮時代で必要とする募兵数が減少したことから徴兵検査の基準が高くなり、体格の良い兵卒が増加したため寸法を全体的に見直した改正である。


この様な内容がweb上でも通説として広く受け入れられおりますが、自分はこの説に疑問があります。本当に正しいのでしょうか。

軍縮と改四五式制定との関連性


陸軍服制の遍歴(括弧内は同年の国家財政に占める軍事費の比率→参考
注:現状において資料が判明した限りを載せています。他にも何か改正が有ったはずです。

明治42年 四二式軍衣袴・外套・軍帽の制定?(33.3%)

明治44年12月 四五式軍衣袴等の制定(35.2%)

大正6年頃 四五式軍衣の寸法改定(47.4%)
大正7年5月 改四五式制定(51.9%)

大正8年3月 軍用絨の品質が低下、支那羊毛が配合される(65.1%)
大正11年7月 第一次山梨軍縮(45.7%)
同11年8月 軍服の緋線除去する中改正の提出(決済は11月か?)

大正12年2月 「雑種羊毛を混入する必要がある」と製絨所が陸軍大臣山梨に上申(34.2%)
同3月 第二次山梨軍縮
大正13年3月 衣袴絨に綿を混紡する事を制度調査委員会が提案(29.6%)
大正14年5月 宇垣軍縮(29.4%)

陸軍初の軍縮は加藤友三郎内閣の時代に行われたいわゆる山梨軍縮です。これは大正11年8月と大正12年4月に行われていますので、大正6年の改正とは時期が一致しません。

尚、大正11年に軍縮が行われるまでは、上原勇作が増設を巡って辞任したことで有名な朝鮮2個師団の編成が続けられ人員が増加していた上、陸海軍合計の軍事費が国家財政に占める割合に至っては明治45年に33.8%で有ったものが大正6年には47.4%にまで上昇しています。このような資料から、全く持って軍縮とは関係のない事実が見えてくるのではないでしょうか。

いずれにしても軍縮と改四五式の制定とは時期がずれますので、「改四五式は軍縮に合わせてサイズを変更した」と言うのは誤りだと思います。そもそも改正理由調書からして、実用性の向上のみを理由としており、兵隊の体格に触れられている部分は一切ありませんでした。

また同様に、大正8年に品質が低下していることから分かるように「改四五式の時代の軍用絨(ウール生地)は軍縮による人員低下で予算に余裕があり、品質が非常に良かった」というのも事実誤認に基づく間違いだと自分は信じています。

これ以降は細かな改正部分について見ていきたいと思います。これ以前も、以降も間違った箇所も多く有るはずです。コメントやツイッターで間違いを指摘していただけると非常に助かります

平成29年5月追記


(引用元)明治・大正・昭和戦前期日本の身長推移 -生活水準向 上の指標としての身長データの有用性-


上の図は見ての通り平均身長の推移になります。年代が下るほど体格は向上傾向にあることが見て取れます。不況によって昭和期には平均身長が下がったということでもないらしいです。




その他、四五式等に関連すること

四二式外套、改○號について

 はじめに明記しておきますが、これについては資料を見つけ出せませんでした。確かに一度見ているはずなので、記憶に従って書きます。(間違ってたらすみません)

 明治42年に制定された四二式外套ですが、例えば同じ1号であっても、新たに制定された四五式外套とは寸法が大きく異なっていました。これでは管理に不都合が生じるので、四五式外套の寸法と揃える為に号数変更が行われることになります。具体的に言うとそれぞれサイズを1つ下げた訳です。1號なら改2號、2號なら改3號といった具合に検印を押し変えていきました。
(H28.12.12追記:資料が見つからず、年度が不明です。四五式制定の際に変更されたのか、或いは改四五式制定後の変更だったのかもしれません。)
しかしながら完全に適応できていたかといえばそうではなく、改○號の袖丈は通常の四五式外套に比べても長すぎたようです。大は小を兼ねるということでしょうか、長くても詰めることが出来るというのも理由の一つにありそうです。

H28.12.12追記:一部文章の変更・追加及び資料の再検索をしました。しかし目当てのものは見つかりませんでした。
 そもそも四二式については自分も良くわかりません。断片的な記憶に沿って適当なことを書いてます。実物も殆ど見たことがないです。

四二式とは
被服手入保存法やその他の資料を見る限り、軍帽・軍衣袴・外套には四二式・改四二式という形式の存在が示唆されています。しかしながら製造期間の短さもあり現存数が非常に少なく、実態は不明です。明治44年12月には四五式が制定されるため、正味2-3年間の期間しか製造されなかったと思われます。
 また改四二式は四二式の各部寸法等に小変更を加えた形式らしいです。正直言って殆ど知りません。実物も殆ど見ないので調べる気すら起こりません。
 
 せっかくなので自分が知っている限り、四五式との細部の違いを羅列しておきます。
(くどいようですが適当に書いているだけです。資料どころか現物の証拠さえ用意していません。)
○軍帽:不明(鳩目・生地質はどうだったのだろうか)
○軍衣:不明(襟の高さはどうだったのだろうか)
○軍袴:後ろにベルトが付いている 
○外套:ホックが二つある 内側の留め釦の位置が違う

四二式と、それ以前に制定されている三八式(もしくは三九式?)との比較も非常に有意だと思います。軍袴のベルトや外套の釦位置を鑑みるに、四二式は三八式の系譜を受け継いだ形式だと思います。

・・・四二式はよくわからないです。

(追記終わり)



なぜ改四五式が制定されたか
 この理由を理解するにはまず、改四五式の制定以前の経歴を知る必要があります。 

四角枠四五式
 ご存知、四五式軍衣袴・外套は明治44年に制定され明治45年より製造開始された軍服です。これらの製品は明治45年以来、後述するような小変更は有るものの、各部の裁断自体は変更されること無く大正6年まで製造が続けられていました。この時期までの四五式は四角枠の印が押されています。

 
丸枠四五式
大正6年に、四五式の使用経験に基づき、各部の裁断が変更されることになりました。
この際、改正された四五式と区別するために、新たに製造される軍服に丸枠の印を押すことになりました。この丸枠四五式は大正6年から大正7年5月までの生産分に適用されました。
 尚、丸枠四五式の詳細な改定月日は不明です。資料には日付の記載がなく、現存する実物からの推論に頼るしか無いため仕方がないです。(四角枠四五式は大正6年までの製造を、丸枠四五式は大正6年から大正7年までの製造を確認済みです。従って大正6年中に改正されたと見て良いです。)

余談ですが改正要旨には「軍衣:襟付を低下させる。理由:後方を低下させたのは首筋に起きる皺を取り除くためであり、前方を低下させたのは顎との接触を防止するためである。」といったような理由を軍衣袴・外套のすべての変更点に載せていますが、1つとして兵士の体格向上、引いては軍縮に言及している部分はありません。

改四五式
新たな四五式が丸枠四五式として区別されるようにはなったものの、、名称が同じであることから書類で管理するには相当の不都合が合ったようです。例えば外套6號に至っては胴囲が10センチも拡大されています。
そのため大正7年5月に“改四五式”として新たに制定されることになりました。つまり丸枠四五式の名称を変更しただけのものが改四五式ということになります。このことは改四五式の制定所に丸枠四五式の変更要旨が添付されていることからも明らかだと思います。


(この項の内容の殆どは古鷹屋様にお教えいただきました。このことがなければ他の事実にも気づくことはなかったと思います。感謝の言葉もありません)


改四五式の実質の制定時期
前述したことからも分かるかと思いますが、改四五式の実質の制定時期は丸枠四五式が製造開始された時点、大正6年になります。


四五式の検印を塗りつぶしてある改四五式
注:手元に実物が無いので写真が用意できませんでした。
web上で画像検索しても分かるように、”四五式”の印を黒く塗りつぶしてその隣に”改四五式”の印を押してある軍服は大量に現存しています。これもまた前述したとおりの理由です。丸枠四五式の製造後に後追いで改四五式が制定されたため、丸枠四五式は全て改四五式と改めて捺印され直す事となりました。被服倉庫や部隊に貯蔵されている膨大な数の軍服がこの際塗りつぶされたと言います(古鷹屋様談)
 

四五式軍帽について
軍帽に関しては皆様御存知かと思いますが、寸法の変更は最後までされることがありませんでした。そのため、昭和17年に軍帽が廃止されるまで四角枠四五式のままです。
尚、鳩目を大型化したり、目庇の裏側をシボ革に変更、鋼製代用星章も使用可、と云った様な小変更はありました。



緋線除去の理由、軍縮との関連性
大正11年8月に陸軍被服中改正が行われ、軍衣外套の袖章、軍袴の側章が廃止されることになります。(いわゆる緋線です。下士兵卒用はウール製の蛇腹線です。)このときの資料は今でもwebで確認することが出来ますが、残念なことに「従来の実験に鑑みて改正する必要があった」としか書かれていません。迷彩上の理由があったのか、或いは費用節減か、といった細かい理由は不明なままです。見出しに合致しない歯切れの悪い文章ですが、軍縮との関連も不明です。
 またこの際、緋線付きで製造された軍服ものも除去していったようで、現存する殆どの実物は緋線が残っていません。





後日以下の内容に触れた2ページめを作成します。

(四五式軍衣袴外套の細部・品質について)
・検印の書式について
・外套の閂止め
・帯赤色と帯青色
・赤銅釦について
・メリノウールと支那羊毛、雑種羊毛等の材質について
・四二式軍衣袴外套及び四五式極初期の粗悪品
・大正11年以降に品質低下?
・ズボン裾のカーブ(モーニング)

(総説・改四五式とは何だったのか)



追記:次何時書くか見通しが立たない(要するに書く気がない)ので画像だけ載せておきます
上下とも大正八年改正以前、メリノウール100%生地の改四五式です。

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