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軍縮期の改四五式軍衣袴外套と、それ以前の四五式との関係について(その2、生地質について)



「大正の軍装」という新刊が近く発売されるということで、にわかに四五式時代の軍服への興味が戻ってきました。半年前から書こうとして放置し続けていた四五式の記事もこの際書き進めたいと思います。

メリノウールと支那羊毛、雑種羊毛などの素材について(衣袴・外套絨のみ)

 ひとえに四五式、改四五式と言ってもそのうちに何種類か生地質が異なった製品が存在しています。明治45年に制定された四五式の軍服類ですが、最初は四二式と同じような霜降りの入っていない単色系で毛が抜けやすく、あまり上質とはいえない生地だったのが、大正2年?(資料が残ってないので曖昧です。)あたりから御存知の通りの非常に質が良い生地に変わっていきました。
資料が無いため改正理由もまた不明ですが、単純に品質の悪さから来る保存上の不利が問題とされたのではないかと思います。



 ・大正2年(?)改正型
  
(↑メリノウール100%の生地 左は袴、右は外套絨)

これらの質の良い生地は(その1)で説明したとおり軍縮とは無関係なものです。その後大正8年に生地質が低下しますが、これも軍縮とは直接の関係はありません。


以下大正8年4月に通達された”軍用絨羊毛配合量の件”より抜粋です

原料は総て豪州産メリノー羊毛を使用しあるも資源の関係を顧慮し外観及び保存力に第なる変異を生ぜざる限度に於て資源潤沢なる支那羊毛を混入しもって自給自足の目的に資し併せて価格の緩和を図り(略)

原料は総て豪州産メリノー羊毛を使用しあるもその「メリノー」羊毛はその資源地、豪州、南アフリカ、南米なるをもって有事の際における補給関係を顧慮する時は支那産羊毛をもってこれに代わるを緊要と認む。然れども支那羊毛はその毛偵粗剛にして(略)


大正12年2月 ”軍絨製造原料に関する上申” より抜粋

 軍絨の製造原料中支那羊毛を混用することに規定せられたる当時は欧州戦乱中にして各種羊毛は破格の騰貴をなし雑種羊毛の如きはその騰貴殊に甚だしきに拘らず支那羊毛は他の羊毛に比し騰貴率低かりしに依りその混用を有利と認めたるも(略)

以上のように第一次世界大戦による相場高騰を直接的要因として品質低下が起こったことがわかります。


・大正8年改正型

(↑ 左:支那羊毛50%混入の衣袴絨、右:支那羊毛70%混入の脚絆絨)

 大正8年に改正されたこの生地は経糸にメリノウール、緯糸に支那羊毛を用いており、衣袴絨、外套絨の場合比率は50:50です。見ての通り表面に太い毛が付いてザラついているのが分かります。
脚絆絨は糸の時点で混紡してあるので経緯の区別はありません。あいにく使用感が有ってわかりづらいですが、衣袴絨よりももっとザラザラしていると思って下さい。

さてこの支那羊毛が混入された生地ですが、実はいつ頃まで製造が続いていたのかがわかりません。というのも似たような生地は昭五式時代の中頃まで見受けられるのですが、本当にそれが同一の生地なのかどうかが自分にはわからないのです。

生地の改正に関して製絨所から以下のような上申書があげられています。




大正10年8月 製絨の為羊毛配合量に変更の件 

 現制衣袴外套絨はその原料として「メリノー」羊毛および支那羊毛を登坂に使用する規定にあり之候処目下財界不況の関係上民間に停滞セル洗浄メリノー羊毛(中略)を混用する(中略)千住製絨所に於いて制作せしむる衣袴外套絨に対し試験的に両種羊毛に対し各2割混用致したく候認可相成りたく及び申請候なり


大正12年3月 軍用絨製造原料に関する上申

絨の製造原料はメリノー及び支那羊毛に限定せられあるも別紙理由書(軍用絨類の名称等改正の件:『近来返って支那羊毛割高となりこれに比し品質良好なる雑種羊毛の方割安なり(略)』)の通り雑種羊毛を支那羊毛に代用するときその品質を向上制止むるのみならず経済上有利(略)

 

大正13年2月 軍用絨混綿案 

経費節減の目的をもって軍用絨に若干の綿花を混入す(略)


 以上のように何件か改正案が出されています。
話はそれますが、改正案はその後採用されたようで、昭和11年における混紡比は衣袴絨で雑種羊毛76%、メリノウール19%、反毛5%となっています。また昭和13年以後の九八式時代の衣袴絨は恐らくですが綿を混紡しているようです。


左:大正15年改四五式、右:昭和11年昭五式
この昭五式の個体に限って言えば殆ど大正15年生地と同一の組成のように思われます。

話を改四五式に戻しますと、問題は要するに雑種羊毛が混入されはじめた確かな時期が不明な以上、改四五式の時期にも雑種羊毛が混入されていた可能性が否定できないという点にあります。これは自分の知識不足に因るところが大きいです。そもそも雑種羊毛とメリノウールの見分け方がわかりません。なので言えることは、似たような風合いの生地は昭五式まで続いていたということだけです。上申書には適宜配合比を変更すると書いてありますし年度によってバラバラの可能性もあります。なので比率などはまったくもって不明です。

尚話はそれますが、生地の改正時期と軍服そのものの製造時期とは重ならない点には注意が必要です。製絨所での製造が終わった後も在庫は残っていたようで、大正10年代製造の改四五式であってもメリノウール100%生地であるといった例は多々見かけられます。
他にも昭和17年に昭五式時代の生地を使用した九八式軍衣などもあります。


即ち結論としては四五式、改四五式には三種類の段階があったと言えます。
1.42式より続く質の悪い生地

2.高品質な生地(大正2年ごろ?より)
3.支那羊毛を混入した生地(大正8年より)

それ以後の変遷は先程書いたように自分の勉強不足によって確かなことは分からずじまいでした。今後調べていきたいところです。


最後に追記

これは個人的な感想に留まりますが、雑種羊毛を混入するべきという内容の上申書 ”軍絨製造原料に関する上申” はどうにも内容が具体的かつ即断を要するような感覚を受けます。雑種羊毛の値段が安いという事を過度に誇張して書かれた可能性も否定できませんが、字面だけを見れば上申を無視する理由も特に見当たらないように思えます。だからこそ現存実物を頼りに雑種羊毛の混入がされていたかどうかを考えていくべきなのですが、中々判別が難しいです。
 
 毛の太さは メリノウール<雑種羊毛<支那羊毛 の順に太くなっていきます。支那羊毛は表面にチリチリした太い毛が混ざるので判別は用意です。しかしメリノウールと雑種羊毛の差は正直自分には余りよくわからないのです。加えて使用感の有る軍服だと表面の太い毛が削げて支那羊毛の見分けがつかない場合もあります。こればかりは自分の経験不足としか言いようがないです。

三十年式銃剣に関する改正資料まとめ


 公開資料の内、銃剣に関するものを年代順に羅列することにしました。毎回参照する手間が省けると思います。なお文章は現代風に書き換えています。意味合いが異なる場合も有りえるので、真剣に調べる場合は原典を当たられた方が無難です。雑ですが最後に出典を附けています。
 括弧内の文章は自分が書いた注釈になります。資料本文に記載された事柄ではないので留意ください。


 法令に関する知識がないので、施行・実施日が判りませんでした。そのため今回は結了の日時を記載します。



明治32年 2月 附(結了日は不明)
○剣身の附刃
 ・附刃する場合は、全長の2/3に施す。
 ・附刃部の幅は2-3mmとする。


明治39年 7月 注:解釈が難しいので原文を乗せました。

・将来製作すべき三十年式歩兵銃銃剣には全て三十年式歩兵銃の属品として彫刻せし一貫番号を追ひ従前と同じく柄頭部に彫刻すべし

・既製三十年式歩兵銃銃剣、剣柄の側面に彫刻したる番号は特に側面番号と呼称し柄頭部に彫刻したる一貫番号と区別す

(つまり、今まではグリップの上部に打刻していた銃剣固有のシリアルナンバーを柄頭部分に移動させたということでしょうか。このことによって既存銃剣の番号と意味合いが異なってしまった。だから「区別の必要が有る」と追記したのでしょうか。実際にグリップの上部にシリアルナンバーがある銃剣は現存しているので、恐らくは正しいと思います。


明治40年 2月 結了
○名称
 ・三十年式歩兵銃銃剣から三十年式銃剣に名称を変更する。旧来は歩兵銃の付属品扱いであったが、これ以降は銃剣自体を第一種の制式品とする。



大正6年2月 結了
○剣差 
 ・表革の厚さを増やす。 理由:帯革通し部周辺の破損が多いため
・接合部端をリベットで留める
・中央の穴周辺の縫製をやめる 理由:縫い目辺りで裂ける事が多いため
 ・帯革を通す輪の部分の幅を増やす



大正8年 2月 結了

○剣身 
 ・柄部(鯉口側)血溝の長さを減らす 理由:製造上の都合
○鍔 
 ・龍尾部の形状を変更する 理由:同上
○鞘の鐺
 ・鞘本体にはめ込む部分の形状を変更する 理由:同上

昭和3年 5月 結了

○下部弾鎖子 (鞘のバネ下部、鞘の本体に埋め込まれてる方)
 ・バネ寸法を7.5から8.5に変更 理由:折損を防止するため
○鞘本体
 ・側面の接合を真鍮ロウ付けのみに限定せず、ガス溶接も可能にする。理由:制作上の便宜を図るため
○鞘の鐺
 ・同上、ガス溶接も許容する。


昭和13年 3月 結了

○上部弾鎖子(鞘のバネ上部、鯉口と一体化してる方)
 ・全長を73mm拡大し、剣身を挟み込むバネ部は差込口すぐの場所と端部に二箇所設ける。
○下部弾鎖子(鞘のバネ下部)
 ・廃止する。(つまり、部品が2つに分かれていたバネ部を1個に統合したということ。)
○鞘本体
・素材を軟鋼から鋼板1.2種 又は3.4種にする。
・本体の厚さを0.7mmから0.6-0.9mmの範囲に変更する
・製造方法に引抜を追加する(引抜工法の参考:http://www.fujialumi.co.jp/image/Extrusion_Drawing.pdf
・パーカーライジングの仕上げ処理も可能とする。それまでは黒色に錆染(ブルーイング)のみであった。
(明記されていないので確証はないが、溶接方法に“ガス”の文字が抜けている為、それ以外の溶接法も許容する事にした可能性もあります。)
○鐺
 ・黒染めだけではなく、パーカーライジング処理も可能とする。
○銃剣本体(長いので割愛、要するに表面処理が必要なすべての部品)
 ・パーカーライジング処理も可能とする。
(剣身は柄部のみ適用されています。つまり剣身の鞘に収まっている部分は除外されるということです。そのため、この改正後も剣身には表面処理が施されておらず白磨き剣身のままです。尚このことについては自分自身読み違えしていましたが、古鷹屋様にご指摘いただき気づくことが出来ました。この場を借りてお礼申し上げます。)


昭和13年7月 附(結了日は不明)
○剣身
 ・従来は平時用の銃剣の剣身は減刃していたが、以降は附刃することにする。
*既製品については別途指示する。

(出動時に短時間で附刃をするのは非常に困難である、という主旨の報告が昭和7年、満州事変の際に行われています。支那事変の動員拡大を鑑みた改正だと思われます。)


└昭和13年10月 
 ・既製品の附刃に関しては、とりあえず現制式の附刃器(詳細は不明)を使用しても良いことにする。
(つまり、改正後の附刃の経始は旧来と異なっているということでしょうか。 実物を見ると、割と新しい個体の刃部幅は1.5mmほどしかありません。それ以前の刃幅は2-3mmです。この時点で変更されたという証拠はありませんが、何かしらの影響はあると思います。)


昭和15年3月 結了
○剣身 
 ・全部にアルカリ性黒色錆染をする 理由:防錆のため、また視認性を低下させるため。(反射によるギラツキ防止?)

○柄木
 ・代用品を制式とするため (詳細不明)
○剣差のバックル、リベット部
 ・代用品を制式とするため 
(実物を鑑みるに、鉄製の黒色塗装又はメッキ仕上げ製品を制式に追加したのだと推察されます。ただし完全に置き換えられたわけではなです。これ以後の製造品においても真鍮製製品は見られます。)

昭和15年 10月 結了
○鍔 
 ・フックの曲線を廃止して、直線に変更する 理由:生産性向上のため




最後に 
 記載は省きましたが、明治32年に士官学校が銃剣留金部の改正を提言しています。バネの脱落が多かったとのことです。提言を製品に反映させたかどうかは不明です。それと明治40年に附刃の有無で戦時用と平時用を区別するといった主旨の資料も有ったのですが、草書体で書かれていて十分に読めなかったので省いています。
 また今回はわかりきっている改正資料のみ乗せましたが、次の記事にて自分の考察を含めた改正の変遷を書いていきたいと思います。以下は予定している項目です。

・銃剣の分類について提案
 └初期・中期・後期を柄頭の形状で区別する

・銃剣の附刃・減刃
 └附刃の幅について
 └附刃の長さについて
 
・写真で見る、三十年式銃剣
 └本体
 └鞘の形状、ろう付

・いわゆる中期型について本体・鞘の改正時期
 └中期型鞘について、バネ部やその他部品の形状から推察する改正時期

・剣身の仕上げ処理について
 └全体にパーカー処理が施された剣身について
 └15年以後製造の白磨き製品から見る例外品

・剣差の一体型について
 └別用途説と後期型説の比較

・彫溝について
 └血抜き用か重量軽減用なのか、溝の効果について
 └製造時期や工場の違いによる形状の違い

・鞘の弾鎖子の形状の変遷
 └初期型鞘の違い
 └中期型の弾鎖子形状

・マークについて
 └中期型銃剣に見られる、小倉工廠マークに阪の刻印が示す意味
 └造兵廠のマークがない銃剣、松下金属単体の個体
 └昭和17年度の資料には大阪造兵廠に銃剣の生産が割り当てられていない理由
 └昭和20年度の資料には大阪造兵廠の下に松下金属が置かれている理由
 └上二項目を総括して考察する、造兵廠・民間工場のマークが持つ意味

・銃剣の鉄鋼の種類について
 └剣身の焼入れについて、資料と現存する実物から推察
 └鞘の素材の差によって生じる見た目の違い

・柄木の材質について
 └クルミ材以外の木材、改正時期


例のごとくいつ書くかわからないので、画像だけ載せておきます


参考

 


   
 

参考

30年式銃剣剣差制式中改正の件;30年式銃剣.38式歩兵(騎)銃44式騎銃制式中改正の件;30年式銃剣剣差制式中改正の件;30年式銃剣.38式歩兵(騎)銃44式騎銃制式中改正の件;3年式銃剣外の点制式中改正の件;30年式銃剣中改正の件;32年式軍刀並30年式銃剣中修正図引換の件;32年式軍刀及30年式銃剣附刃に関する件; 30年式銃剣中改正の件; 三十年式銃剣、三十二年式軍刀甲、乙並に九五式軍刀中改正の件;30年式銃剣中改正の件

軍縮期の改四五式軍衣袴外套と、それ以前の四五式との関係について(その1)

前説


改四五式軍衣袴・外套の制定時期は大正7年ですが、wikipediaの陸軍服制のページ(2016年6月20日 (月) 14:28‎ 曾禰越後守氏改訂版)には以下のような記載があります。

「改四五式」の捺印がされた。これは、軍縮時代で必要とする募兵数が減少したことから徴兵検査の基準が高くなり、体格の良い兵卒が増加したため寸法を全体的に見直した改正である。


この様な内容がweb上でも通説として広く受け入れられおりますが、自分はこの説に疑問があります。本当に正しいのでしょうか。

軍縮と改四五式制定との関連性


陸軍服制の遍歴(括弧内は同年の国家財政に占める軍事費の比率→参考
注:現状において資料が判明した限りを載せています。他にも何か改正が有ったはずです。

明治42年 四二式軍衣袴・外套・軍帽の制定?(33.3%)

明治44年12月 四五式軍衣袴等の制定(35.2%)

大正6年頃 四五式軍衣の寸法改定(47.4%)
大正7年5月 改四五式制定(51.9%)

大正8年3月 軍用絨の品質が低下、支那羊毛が配合される(65.1%)
大正11年7月 第一次山梨軍縮(45.7%)
同11年8月 軍服の緋線除去する中改正の提出(決済は11月か?)

大正12年2月 「雑種羊毛を混入する必要がある」と製絨所が陸軍大臣山梨に上申(34.2%)
同3月 第二次山梨軍縮
大正13年3月 衣袴絨に綿を混紡する事を制度調査委員会が提案(29.6%)
大正14年5月 宇垣軍縮(29.4%)

陸軍初の軍縮は加藤友三郎内閣の時代に行われたいわゆる山梨軍縮です。これは大正11年8月と大正12年4月に行われていますので、大正6年の改正とは時期が一致しません。

尚、大正11年に軍縮が行われるまでは、上原勇作が増設を巡って辞任したことで有名な朝鮮2個師団の編成が続けられ人員が増加していた上、陸海軍合計の軍事費が国家財政に占める割合に至っては明治45年に33.8%で有ったものが大正6年には47.4%にまで上昇しています。このような資料から、全く持って軍縮とは関係のない事実が見えてくるのではないでしょうか。

いずれにしても軍縮と改四五式の制定とは時期がずれますので、「改四五式は軍縮に合わせてサイズを変更した」と言うのは誤りだと思います。そもそも改正理由調書からして、実用性の向上のみを理由としており、兵隊の体格に触れられている部分は一切ありませんでした。

また同様に、大正8年に品質が低下していることから分かるように「改四五式の時代の軍用絨(ウール生地)は軍縮による人員低下で予算に余裕があり、品質が非常に良かった」というのも事実誤認に基づく間違いだと自分は信じています。

これ以降は細かな改正部分について見ていきたいと思います。これ以前も、以降も間違った箇所も多く有るはずです。コメントやツイッターで間違いを指摘していただけると非常に助かります

平成29年5月追記


(引用元)明治・大正・昭和戦前期日本の身長推移 -生活水準向 上の指標としての身長データの有用性-


上の図は見ての通り平均身長の推移になります。年代が下るほど体格は向上傾向にあることが見て取れます。不況によって昭和期には平均身長が下がったということでもないらしいです。




その他、四五式等に関連すること

四二式外套、改○號について

 はじめに明記しておきますが、これについては資料を見つけ出せませんでした。確かに一度見ているはずなので、記憶に従って書きます。(間違ってたらすみません)

 明治42年に制定された四二式外套ですが、例えば同じ1号であっても、新たに制定された四五式外套とは寸法が大きく異なっていました。これでは管理に不都合が生じるので、四五式外套の寸法と揃える為に号数変更が行われることになります。具体的に言うとそれぞれサイズを1つ下げた訳です。1號なら改2號、2號なら改3號といった具合に検印を押し変えていきました。
(H28.12.12追記:資料が見つからず、年度が不明です。四五式制定の際に変更されたのか、或いは改四五式制定後の変更だったのかもしれません。)
しかしながら完全に適応できていたかといえばそうではなく、改○號の袖丈は通常の四五式外套に比べても長すぎたようです。大は小を兼ねるということでしょうか、長くても詰めることが出来るというのも理由の一つにありそうです。

H28.12.12追記:一部文章の変更・追加及び資料の再検索をしました。しかし目当てのものは見つかりませんでした。
 そもそも四二式については自分も良くわかりません。断片的な記憶に沿って適当なことを書いてます。実物も殆ど見たことがないです。

四二式とは
被服手入保存法やその他の資料を見る限り、軍帽・軍衣袴・外套には四二式・改四二式という形式の存在が示唆されています。しかしながら製造期間の短さもあり現存数が非常に少なく、実態は不明です。明治44年12月には四五式が制定されるため、正味2-3年間の期間しか製造されなかったと思われます。
 また改四二式は四二式の各部寸法等に小変更を加えた形式らしいです。正直言って殆ど知りません。実物も殆ど見ないので調べる気すら起こりません。
 
 せっかくなので自分が知っている限り、四五式との細部の違いを羅列しておきます。
(くどいようですが適当に書いているだけです。資料どころか現物の証拠さえ用意していません。)
○軍帽:不明(鳩目・生地質はどうだったのだろうか)
○軍衣:不明(襟の高さはどうだったのだろうか)
○軍袴:後ろにベルトが付いている 
○外套:ホックが二つある 内側の留め釦の位置が違う

四二式と、それ以前に制定されている三八式(もしくは三九式?)との比較も非常に有意だと思います。軍袴のベルトや外套の釦位置を鑑みるに、四二式は三八式の系譜を受け継いだ形式だと思います。

・・・四二式はよくわからないです。

(追記終わり)



なぜ改四五式が制定されたか
 この理由を理解するにはまず、改四五式の制定以前の経歴を知る必要があります。 

四角枠四五式
 ご存知、四五式軍衣袴・外套は明治44年に制定され明治45年より製造開始された軍服です。これらの製品は明治45年以来、後述するような小変更は有るものの、各部の裁断自体は変更されること無く大正6年まで製造が続けられていました。この時期までの四五式は四角枠の印が押されています。

 
丸枠四五式
大正6年に、四五式の使用経験に基づき、各部の裁断が変更されることになりました。
この際、改正された四五式と区別するために、新たに製造される軍服に丸枠の印を押すことになりました。この丸枠四五式は大正6年から大正7年5月までの生産分に適用されました。
 尚、丸枠四五式の詳細な改定月日は不明です。資料には日付の記載がなく、現存する実物からの推論に頼るしか無いため仕方がないです。(四角枠四五式は大正6年までの製造を、丸枠四五式は大正6年から大正7年までの製造を確認済みです。従って大正6年中に改正されたと見て良いです。)

余談ですが改正要旨には「軍衣:襟付を低下させる。理由:後方を低下させたのは首筋に起きる皺を取り除くためであり、前方を低下させたのは顎との接触を防止するためである。」といったような理由を軍衣袴・外套のすべての変更点に載せていますが、1つとして兵士の体格向上、引いては軍縮に言及している部分はありません。

改四五式
新たな四五式が丸枠四五式として区別されるようにはなったものの、、名称が同じであることから書類で管理するには相当の不都合が合ったようです。例えば外套6號に至っては胴囲が10センチも拡大されています。
そのため大正7年5月に“改四五式”として新たに制定されることになりました。つまり丸枠四五式の名称を変更しただけのものが改四五式ということになります。このことは改四五式の制定所に丸枠四五式の変更要旨が添付されていることからも明らかだと思います。


(この項の内容の殆どは古鷹屋様にお教えいただきました。このことがなければ他の事実にも気づくことはなかったと思います。感謝の言葉もありません)


改四五式の実質の制定時期
前述したことからも分かるかと思いますが、改四五式の実質の制定時期は丸枠四五式が製造開始された時点、大正6年になります。


四五式の検印を塗りつぶしてある改四五式
注:手元に実物が無いので写真が用意できませんでした。
web上で画像検索しても分かるように、”四五式”の印を黒く塗りつぶしてその隣に”改四五式”の印を押してある軍服は大量に現存しています。これもまた前述したとおりの理由です。丸枠四五式の製造後に後追いで改四五式が制定されたため、丸枠四五式は全て改四五式と改めて捺印され直す事となりました。被服倉庫や部隊に貯蔵されている膨大な数の軍服がこの際塗りつぶされたと言います(古鷹屋様談)
 

四五式軍帽について
軍帽に関しては皆様御存知かと思いますが、寸法の変更は最後までされることがありませんでした。そのため、昭和17年に軍帽が廃止されるまで四角枠四五式のままです。
尚、鳩目を大型化したり、目庇の裏側をシボ革に変更、鋼製代用星章も使用可、と云った様な小変更はありました。



緋線除去の理由、軍縮との関連性
大正11年8月に陸軍被服中改正が行われ、軍衣外套の袖章、軍袴の側章が廃止されることになります。(いわゆる緋線です。下士兵卒用はウール製の蛇腹線です。)このときの資料は今でもwebで確認することが出来ますが、残念なことに「従来の実験に鑑みて改正する必要があった」としか書かれていません。迷彩上の理由があったのか、或いは費用節減か、といった細かい理由は不明なままです。見出しに合致しない歯切れの悪い文章ですが、軍縮との関連も不明です。
 またこの際、緋線付きで製造された軍服ものも除去していったようで、現存する殆どの実物は緋線が残っていません。





後日以下の内容に触れた2ページめを作成します。

(四五式軍衣袴外套の細部・品質について)
・検印の書式について
・外套の閂止め
・帯赤色と帯青色
・赤銅釦について
・メリノウールと支那羊毛、雑種羊毛等の材質について
・四二式軍衣袴外套及び四五式極初期の粗悪品
・大正11年以降に品質低下?
・ズボン裾のカーブ(モーニング)

(総説・改四五式とは何だったのか)



追記:次何時書くか見通しが立たない(要するに書く気がない)ので画像だけ載せておきます
上下とも大正八年改正以前、メリノウール100%生地の改四五式です。


(日本軍 軍服) 改四五式軍衣、昭五式軍衣、九八式軍衣について比較


陸軍の軍服の正式は
(四二式)→四五式→改四五式→昭五式→九八式→三式
と変わっていったらしいですが手元にあるのは改四五式-三式の間だけです
(四二式以前はよくわかりません)

*四二式軍衣
特徴:四五式と比べると検印が縫い付けだったりズボンの形が違う(らしい


・改四五式軍衣


四五式軍衣との違いは、裁断(各部のサイズ)の変更のみ

制定後数年で袖章の取り外しの通達がありましたので、袖の赤線は残っていません



昭五式軍衣



九八式軍衣


改四五式、昭五式、九八式についての大まかな違いですが、まず一番に言われるのが

四五式軍衣→サイズ変更→改四五式軍衣

改四五式軍衣→背中の生地を二分割→昭五式

昭五式→折襟化→九八式

です
手元にあるのでわかる分だけ比較してみたいと思います。


○生地質

軍服の生地は陸軍の製絨所にて製造されたものを使用しています。
生地質自体が何式と制式されていたわけではないので例えば、戦争末期の三式軍衣でも
昭五式の生地を使用している場合があります。
(製絨所が昭五式時代の生地を製造していたわけではなく、昭五式の生地が余っていた為)


基本的に時代を下るだけ生地がスカスカになっていきます
ウール繊維の量が減らされているからです。

また繊維の素材も劣化していっています
最初はメリノウール100%という高級さだったのが支那羊毛入りとなり、
戦争末期にはスフ入りでホコリが溜まったようにしか見えない混紡生地になってしまいます

○裏地
四五式軍衣は全て内張りがありますが、昭五式以降は一部途切れています。
生地の節約と言われていますが、着用した時の感じからすると
恐らく内張りの追従性を良くするためと思います。
四五式軍衣の内張りは縫い止めれているうえ布が厚いので背中に引っかかるような感覚があります
なので後述の理由と合わせ、着心地が他の軍衣に比べてかなり劣ります

内張りの生地質自体も四五式は厚めの滑らかな生地、昭五式以降はザラザラした感じの生地です
確か正式な名前も違っていたと思います


順に改四五式、昭五式、九八式


昭五式と九八式でも内装の形が変わっています。
昭五式の方は前面も途切れていますが、九八式では前面は全て縫い止められています。
これは恐らくですが、前面の内張りの有無は着用感に影響がなかったため生地擦れの保護のために内張りが復活させられたものと思います。

○包帯包入れ



←九八式 四五式→

四五式と昭五式は、胸の物入れとつながった一枚の布を区切ることで包帯包入れとしています。
(ちょっとわかりづらくてすみません)
九八式では別個に布を置いてポケットを作っています

○脇当





九八式では、脇下に生地を増やしています。
そのため腕を動かしやすくなっています


○ 背中の裁断




昭五式からは二枚分割です。
余る生地を減らすためらしいです。

ただ、陸軍は昭五式に至る時代からウール製品の生地に再生繊維を加え始めています。
余った生地はそちらに回すことも出来るでしょうから、
手間をかけてまで二分割をする意味があったのかどうか気になります


○見返り部分



改四五式までは見返り部分まで絨が使われていますが、昭五式からは綿の生地に変わります


○ボタンの違い
四五式-昭五式-九八式と制定される毎に変わっているわけではないので○式だと言い切れるわけではないのですが、ボタンの品質は四五式のあたりが一番ひどいです

・足の部分がガタガタで穴の大きさも一定じゃないのがほとんど
・上のパーツが完全にカシメられていなくてクルクル回る個体が多い
・カシメの位置がズレていてボタン全体の高さが歪んでいる個体もある

こんなのばっかです
裏に刻印が押してありますが、結構いい加減です。
この時代のボタンは形出しなんかも半分手作業で作られていたのではないでしょうか

ともかくだいぶ酷いです

九八式の時代になるとかなり品質が向上しているみたいで個体差は全然有りません

*末期のベークライト製ボタンはそれはそれで酷いです。 糸通し穴をドリルで開けていると思われるのですが、斜めにずれたり穴が本体をかすっているのもあります。










○その他



・四五式は若干剣留めが大きい (昭五式以降は細い)
・四五式は脇裂の長さか全体的サイズの影響か、裏地があるせいか、それとも体格の問題か、
ともかく私のウエストは太いハズなのに、側面に纏めた所が更にダバつく 昭五式はややマシ  九八式はしっかりと纏められて綺麗に収まる
・四五式は袖先に補強縫いがしてある (そうそう千切れるような部分ではないので意味が無いと思う)
・九八式軍衣では腰ポケットが追加されている これは非常に便利で使いやすい




四五式から九八式軍衣に至る軍服の変遷では大量生産用の設計変更の面が強調されることが多いですが、個人的には改正の部分を一番にあげるべきだと思っています。

九八式での実用性を大幅に増す改正なんかは一番に注目すべき点です

ウール生地の紫外線による変色について(冬衣の絨の日焼けについて)

今回は軍服の生地が余っていたので実験してみました。

5月に実験してあります


5日後の状態です



右が日光に晒されたものです
明らかに色が変わっています

ですが、これは日焼けというよりも退色といったほうが良い感じです
緑色の染料が紫外線にやられて黄色が目立っているように見えます

装外(ボロボロの)軍衣のように完全に茶色に変色するまでにどれぐらいの期間が必要なのかは不明ですが、数日太陽光に当たるだけで明らかな違いが出てきましたから

例え部屋で保管する場合であっても蛍光灯、窓から差し込む光 等で紫外線を浴びるようなことには気をつけなければならないと思います。

特に濃緑色と呼ばれる九八式-三式軍衣の頃の生地は
変色しやすい緑色の染料が主ですので
さらなる注意が必要です。

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